290-0025 千葉県市原市加茂1-7-9 唯心円成会発行
第305号 2010年5月号


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「視点発見」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・自灯明」自分こそ自分の主である

・・・・・・・・・・・・・・・「すみれ」(美好芳子)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・人間愛こそが自分を癒す愛

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 「視点発見」

 ある雑誌の一ページで、その絵を見出した。
満開の桜の真中を真下から見上げた図である。
目もくらむような、と表現すべきか、あるいは単なる写生のひとこまであるというべきか。

だが、私はこの絵を「見事だ」と感心した。
こんな「狙い方」があるのが。これを描いた人は、その人独特の視点を定める事が出来たのである。

ことは画の事に関してだけではない。
人生のあらゆる場面において、人は自分独特の視点を定め得るか、ということが重要なのである。



自灯明」自分こそ自分の主である

人生80年間生きるとすると、70万時間の長さになる。
寝ている時間を除いて、起きている47万時間については、日々、色々と考えながら生きている。

そうした人生の中で、人々はどのぐらい自分の意志に忠実に生きているだろうか。
例えば、何かしたいことがあったとしても、周りの人の目を気にして、
結果的に我慢してしまうことはないだろうか。
たとえ自分としてはやりたいと思ったことがあっても、結局はやらずに終わらせてこなかっただろうか。

仏陀が説かれた中に、「自分こそ自分の主(あるじ)である」という言葉がある。
社会の中で生きる中で、自分がしたいことがあっても、それが正しいかどうか確信が持てず、
常に周りの人に尋ねることが多い。しかし、多くの人に聞けば聞くほど、様々な答えが出てきて、
最後にはどの答えが一番正しいのか判断に迷ってしまう。

こうしたことを日々繰り返す中で何か起きても、自分の頭で考えるよりは、
他人の意見を求めてしまい、最後には、自分の頭で考えることは全く止めてしまう。

この状態を冷静に考えるとすぐに分かるのだが、
“この世の中に、常に正しいことなど存在していない(無常ということ)”。
ちょうど、季節が変われば着る服装も変わるように、自分の周りの状況は刻々と変化する。
すべてが変わってしまうのなら、自分の頭で考えて分からないことは、他人にも分からないのが当然だろう。

「自分が自分の主」になるとは、何事も自分自身の頭で考える習慣をつけて、
その中から見つけた最適な答えを迷うことなく実行することだ。
見つけた答えを行動に移していけば、周りの人達は色々と批判を加えるだろう。
だが、そうした批判を気にしていたのでは、「自分が自分の主」にはなれない。
批判に対しては、にっこりと笑いながら聞き流せばよい。

ここで何故、「自分が自分の主」になるように勧めるのかといえば、
それは人間本来の脳の働きがそうするように出来ているからである。

「何かしたいこと」がある時は、情動脳の欲求にアクセルがかかった状態。
それに対して、「他人の目を気にして躊躇する」とは、理性脳の働きでブレーキがかかった状態。
ブレーキが強く作動して、欲する行動が止まれば、「我慢する」状態で終わってしまう。
一見すればこれだけのことだが、我慢することは頭の中に強いストレスを生じさせる。

我慢の人生を送ってきた人は、一見すると「おとなしくて従順な人」といった印象を受けるものだが、
その心の中では「悔しさと怒り」が煮えたぎる。
これを放置すると、心や体が病んでしまう。そのことからも、
人生47万時間は他人の顔色をうかがいながら過ごすべきではない。

ここでもし、その人の人生の終末時点から人生全体を鳥瞰できることが可能なら、
「自分が自分の主できた人」と比べて、「他人の目を気にしながら我慢した人」の方で
大きく得している点は見出せないだろう。それに比べて、我慢しなかったにもかかわらず、
「自分が自分の主」で生きた人の人生満足度は、非常に高いものになるだろう。

ちなみに、脳メカニズムから解説すると、情動脳が97%の働きを果たすのに対して、
顕在意識の判断を下している理性脳の働きはわずか3%にすぎない。

こうしたことからも、人生の中では、情動脳から生じる欲求に対しては、
理性脳のブレーキをかけすぎないことだ。
これが、自分の人生に忠実に生きていくことにつながっている。



 人間愛こそが自分を癒す愛

あるとき私は、ある有識者による「いかにすれば、日本は蘇るか」という本を読んでいました。
実に卓抜した説得力で、日本経済がいかにして破綻したか、いかにしてこの現状を救えるかという提言まで、
一読「うーむ、なるほど」と思うほどの勝れた内容でした。

特に事例として引用された歴史的事実の独自の解釈は、あっと驚くほどの見事さで、息もつかさず読み通しました。
しかし、この翌日、私は久しぶりにクリシュナムルティの著書を書棚から引き出して、
読み返していたときに、次の一文を目にして、愕然としたのです。
そこにはこう書いてありました。

「アメリカ人が、自分はアメリカ人であると言い、インド人が、自分はインド人であるなどと言っていいものでしょうか」

一見、わけのわからない文章です。
アメリカ人が自分をアメリカ人といい、インド人が自分をインド人だと言うのは当たり前のことではありませんか。

でもこのとき私にはクリシュナムルティのいわんとすることが、痛いほどよくわかったのです。

「人は、なぜ自分の生まれたその場所に、かくも特別の誇りを持つのでしょうか?
そこに生まれたことは、彼の努力によるものではありません。
それが偶然であれ、必然であれ、彼の優越を支えるものではないのです。
アメリカ人もインド人も、そして日本人も同じ「人」なのです。」

この一文を読んだとき、前日読んだ「いかにすれば、日本は蘇るか?」は
にわかに色褪せたものに思えたのです。

私達はともすれば、病んだ自己重要感の苦痛を逃れんとして、
他の国々の人々を凌駕し、自己の優越感を誇らんとするのです。

それは誤った自己愛です。
この一方だけに偏った自己愛を薄めることこそ世界を癒すことなのです。
そして、それをなすものが「人間愛」なのです。

では、そのような人間愛は、どのようにすれば得ることが出来るのでしょうか?
その答えは、クリシュナムルティの言った「観ること」にあります。
人間にとって、最も大切な事は、観るところこそにあるのです。

「観る」と書いて「見る」と書かないのは、自分の心の中までみるので、
観察の観という字を用いたのです。
そして更に言うならば、それは「自由に観る」ということです。

そして、それはミクロ(分析的に)、またマクロ(大局的に)の両方が観られるということでもあります。

この観るをずっと続けます。
あらゆる評価を与えることなく、ただあるがままの姿をじっと観続けていると、
あるがままの姿が理解されてきます。
すると、人間の心の奥底から愛が湧き出してくるのです。

そのとき、その人には、必要なものと、不必要なものがわかってきます。
そしてその愛(人間愛のことですが)をもって、なすべきことを行えるようになります。

そしてこの愛こそ、世界を癒し、同時にあなた自身を癒す愛なのです。



 美好芳子 すみれ 花言葉「信頼・誠実な愛」



                    


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